スーパー白鳥13号運行記録3

このブログは超ぐうたらワンマン運転士の日常(もはや気が向いたら、という気もw)を書いたブログです。はてなダイアリーで公開していた運行記録2が今年の春になくなるため、新たに作成しました。2005年11月4日…「運行記録2」暫定開業/2005年11月14日…「運行記録2」本格開業/2019年1月13日「運行記録3」移行開業

不定期連載、最長片道きっぷの旅'93 vol.41

 さてそろそろ終わりが近付いてきました。てか、あと1週間で終わりなんだ。
 何か短いようで長いようで、とにかく大変でした。
 あっ、ちなみに最終の2日間はいつものように記録が取れていませんのでご了承下さい。
 てか、9月に入ってから妙に記録が短いような気が。
 一応あらかじめ言っておきました。


第36日目(8月29日(日))晴れ時々曇り
 (新見→)備中神代伯耆大山→江津→三次
195 備中神代6:05→米子7:40(921M/1-3/クハ115-1233)
            (*新見5:57発)
196 米子8:35→松江9:15(139D/1-2/キハ28 2467)
197 松江10:21→出雲市10:54(283M/1-3/クハ115-404)
198 出雲市12:11→江津13:56(349D/2-2/キハ40 2004)
199 江津14:33→三次17:29(451D/1-1/キハ40 2001)


 5時10分頃目が覚める。昨日備中神代で買ったカップラーメンを啜っていると、異常なくらいに鼻水が出る。時々激しいくしゃみも出る。どうやら風邪のようだ。昨日腹も頭も痛かったのだが、その時からひいていたのかもしれない。ただ今のところは千葉の方を回っていた時のように熱も出て酷くなっていないのが救いではある。


 新見5時57分発の米子行きは静かに新見駅を離れた。どうやら客は私一人だけのようである。
 ところで私は新見から190円区間の切符で入場した。もともと最長片道きっぷは(塩町)芸備線備中神代伯備線伯耆大山)となっており、備中神代から新見までは区間外乗車となる。ただし、芸備線から入って新見で特急「やくも」に乗って米子に向かう場合は途中下車をしなければ運賃は必要ないと言うことになるのだが*1、さすがに昨日の昼過ぎに新見に着いて、翌日の1番列車(しかも普通列車)に乗るというのは「一時出場」の範疇からは明らかに逸脱しているので*2190円切符を払っての入場となった次第である。
 もちろん、昨日も190円×3=570円を新見駅に払っている。*3
 6時05分発の備中神代から「最長片道きっぷの旅」が再開となる。足立のあたりには採石場や石灰工場が広がっている。次の新郷に入る手前で突然という感じで並行している道路が真っ白けになっている。不思議に思って宮脇氏の書*4を見ると、『石灰岩の粉が線路際や道路の脇に撒き散らされている。貨車やトラックからこぼれたのだろう』とあった。見た目そんな感じだったので納得はしたが、それにしてもそうであれば派手に撒き散らしたものだと思う。何しろ道路全体が100m以上に渡って石灰岩の粉で覆われているのだから。
 私の他に客がいない列車は軽快に谷田峠を越え、鳥取県に出る。鳥取県に入った最初の駅・上石見から客が乗ってきた。日野川沿いに大倉山を迂回し、石霞渓を過ぎると生山、そしてさらに日野川の谷を下ると日野町の中心・根雨である。ここでは列車待ち合わせのために8分ほど停車する。まず最初に普通列車の新見行きがこちらの到着を待って出ていった。寒いので暖かいものでも飲むか、とたまたま駅舎内にあったコーヒーの自動販売機で、これも面白そうだからとストロベリーシェイクの暖かいのを買った。私は高校の時にコーヒーの飲み過ぎで胃をおかしくしたことがあり、気が向いた時にカフェ・オ・レを飲む以外、コーヒーは口にしない。*5大の紅茶党で、今回の旅でもティーバッグを持ち歩いている。ストロベリーシェイクを持ち歩きながら列車に戻るうち、貨物列車がガタゴトと通過していき、やっと発車となる。江尾の先から米子自動車道が右の方に見えてくる。コンクリートアーチはかなり高く、事故で防護壁を破って下に落ちたら、といらぬことを考えてしまう。伯耆溝口の当たりでは、右手に大山がきれいに見えてくる。
 山陰本線と合流する伯耆大山から米子の市街が広がる。日野川を渡り、米子市営球場が見えてくると最近開業したばかりの東山公園に停車。そして右から境線のレールと架線が現れる*6と、この列車の終点・米子である。


 米子からは細切れに列車をつなぐ。まずは8時35分発の列車で松江に向かう。
 米子を出ると間もなく島根県に入る。距離的には鳥取よりも松江の方が近いのだが、米子や境港はなぜか鳥取県にある。昔の「国」の影響なのだろうか。鳥取因幡伯耆が合わさった県であり。次の安来からは出雲国島根県)である。
 出雲は神の国ともいわれている。神無月は10月の別のいい方だが、この時期には各地に散らばっている神様が出雲大社に集まって会議をするので、神がいなくなる月、と信じられている。そんな言い伝えがあるくらいだから出雲の歴史は古く、古墳や旧跡があちらこちらにある。列車はそんな旧跡街道を走る。
 荒島、揖屋と上り列車の通過を待つ。列車は中海の南を走っているのだが、なかなか姿を見せようとしない。そう思ううちに松江の市街に入り、「幕の内」の松江駅に着いた。
 松江駅前はそれなりにビルがあるが、何となく寂しい感じである。それもそのはず、松江の本当の市街は川を挟んで向かい側にあるのだそうである。レンタサイクルで市内散策というのも悪くはなかったが、前半で金を使い過ぎたおかげでこの先の余裕がなくなっている。それに風邪で身体が少々だるい。そのためにやむを得ず大人しく過ごすことにした。


 松江からは西出雲行きの電車に乗る。ここから宍道までは宍道湖沿いに走るのだが、中海のときと違ってかなり湖岸沿いを走る。宍道湖は中海と同じ「汽水湖」と呼ばれ、海水と淡水の混ざった湖である。この水質から宍道湖ではシジミが多く採れるのだが、淡水化事業によって宍道湖シジミが打撃を受けるだろうといわれている。
 玉造温泉ではまだ温泉という時期でもなく、また昼前であるためか降りる人は少ない。宍道からは木次線が分岐している。私にしてみれば木次線はすごく乗ってみたいところで、昨日も時間があれば行ってみたかったのだが、何しろ備後落合〜出雲横田間が1日4往復という凄まじいダイヤなので*71日がかりの旅になってしまい、既にその余裕もないので断念したいきさつがある。山陰ワイド周遊券などを使って乗るのが一番適当な気がする。*8
 宍道を出ると右の方に出雲空港が見える。ちょうど飛行機が停まっていて、それと分かる。時刻表から推察すると大阪から飛んできて、これから隠岐に向かうのだろう。斐伊川を渡り一畑電鉄*9のレールが近付くと出雲市である。10時54分の到着と同時にほぼ全員が降りてしまい、さながら回送列車のようである。そうこうしているうちに隣のホームから「本当の」回送列車が出雲市のホームを離れた。10時32分に到着していた「出雲3号」で、西出雲の車両基地に向けての発車である。11時04分、回送電車「もどき」も西出雲に向けて発車していった。
 出雲ではそばを食べてみたい、と思っていた。本当ならば本職のそば屋で食べるのが一番だが、金がないので食堂のそば屋で我慢する。もちろん目当ては割子そばである。3段に重ねた割子に急須状のつゆさしでそばつゆをかけて食べる。大根なのだろうか、辛みがピリリと効いておいしい。


 出雲市からは「ワンマン」の益田行きに乗る。後ろが冷房車なのでそちらに乗る。
 JR西日本のキハ40とキハ47の冷房車はなかなか見分けがつかない。常識的な見分け方として屋根を見るというのがあるが、今回の場合は見ても分からない。分からないのは当然で、冷房機器は上でなく下についているのだ。だから見分け方としては、1つは窓が開いているか開いていないか。もう一つは車内を覗いてみて、送風口が極端に出ているかそうでないか。これしか見分けようがないと思う。
 昔知井宮、神西と名乗っていた駅に丹念に停まる。西出雲はともかく、出雲大社口は少々(どころか相当に)詐欺のような気がする*10。何しろこの駅から大社にに歩いていこうものなら最低1時間、常識的な線で1時間半から2時間はかかるからだ。見た感じバスは当てにならないだろうし、タクシーなど呼ぼうものなら夏目さん2人分は確実に取られるだろうから、無難にバスか電車で出雲市から行った方が良いのではなかろうか。
 小田のあたりから日本海のそばに出る。間もなく過ぎ行くであろう夏を惜しむように、海辺で遊んでいる家族連れもいる。田儀を過ぎるとにわかにトンネルが多くなる。
 太田市でかなりの出入りがあった後、江津や浜田まで中心となる都市がないので、降りる方はそれなりにあるが、乗る方はさほどでもない。女の子がミサンガを巻いているのはともかくとして、男が足首にミサンガを巻いているのはどうかとも思う。足首に何かお願いごとでもあるのだろうか。またせっかくの冷房車なのにも関わらず、窓を開けてしまう人が後を絶たない。もともとそれほど良く冷えるものではないのだが、窓を開けているから冷えないものがなおさら冷えない。車掌も冷房車の窓を閉める指導くらいはしてほしいものである。*11
 さらに進むと湯泉津の駅に着く。特急「いそかぜ」の通過待ち合わせのために数分ほど停まるのだが、ふと見てみると、駅舎の瓦は光沢のある赤茶色の瓦で、もしかしたら新しくふき替えたものでは、と思ったくらいである。なるほど、これが石州瓦か、と思わず感心したものである。
 湯泉津を出て海のそばとは思えないような中を進み、競技用ボートの浮かぶ江の川を渡ると、三江線のレールと合流し、江津に着く。江津は江の川の河口にある町、という意味なのだろう。


 江津の留置線には可愛らしい外観のキハ40 2001が待機している。ただ「江津→三次→浜原」というサボをつけてはいるが、14時15分着の列車が折り返すものと思っていたから、浜原からの列車が到着した時にキハ40 2001が動き出したときも2両編成で運行するのだという風に思って連結シーンを見ようとしていたくらいであった。ところがキハ40 2001が浜原からの車両と2mくらいの間を空けて停まり、いきなりドアを開けたものだから驚いたのなんの。慌てて荷物を抱えてキハ40 2001に乗り込んだものである。*12
 江津を出るといきなり右にカーブを切って江の川の左岸に出る。江の川は文句なく中国地方では一番大きい川だが、川幅も広く、水量も豊かである。今までの中では川の流れの美しさでは五本の指に入るのではないだろうか。駅に停まる度に地元のお年寄りが降りていき、私を含めどう考えても三次まで降りないぞ、といわんばかりの人たちの割合が高くなる。江の川の沿岸は古くも新しくも家が建っているが、石見川本の次にある木路原の駅では宅地造成が行われている。後々ここには石州瓦でふいた一軒家が建つのである。
 それなりに鉄橋を造る技術があるのだろうに、出し惜しみするかのように左岸にへばりつくように敷かれている。石見柳瀬で浜原発浜田行きの列車と行き違いになるが、あちらもこちらと同じ可愛らしいカラーリングの車両であった。*13
 粕淵の手前でやっと江の川を渡り、回り込むような感じで浜原に着く。浜原からは昭和50年に開通した新線区間である。それまでまともに50km/hも出せないような列車が、突然エンジンを換えたかのようにコンスタントに60km/hから70km/hは出すようになる。その代わりトンネルも多くなるが、江の川の景観を損ねることはない。
 左岸に移って宇津井に停まる。この宇津井は江の川の支流にできた集落で、比較的まとまっているので駅を作ることに決めたはいいが、地形を無視した鉄建公団方式の建設の結果地表から30mの高さにホームのある高架駅となってしまった。ビルでいうと7〜8階くらいの高さだが、エスカレーターや、ましてやエレベーターなどというものはなく、116段の階段を昇り降りしながら利用しているのである。
 その宇津井を出てトンネルに入り、そのトンネルを抜けると江の川を渡る。その瞬間、「こんなきれいな川は…」と驚いてしまった。水に透明感があって、河原も奇麗である。
 このあたりから、江の川は広島・島根県境を通り、名前も可愛川と変わる。川の右岸が広島、左岸が島根で、そのために右岸に出た伊賀和志は広島県、左岸に戻って次の口羽が島根、という風になる。ちなみにこの口羽から三江南線と呼ばれた旧線区間に入る。
 作木口の先から広島県に戻り、可愛川の谷を忠実にたどる。途中どこだかでダムの工事が行われていた。効率は良くないが、クリーンである故に水力発電は支持されているが、ダムの工事現場を見るとさすがにどんなものかと思う。川の姿を変えたり、二酸化炭素を放出して温暖化を促したり、放射能汚染の危険性を考えたり、そこまでして電気が欲しいのだろうか。*14
 船佐と粟屋の間に長谷という駅がある。三次まであと7,8kmのところにある駅だが、朝の下り三次行きと夕方の上り三次発の列車しか停まらない。この列車もかなりのスピードで通過した。
 可愛川を渡るあたりで三次の市街が右手の方に見えてくる。トンネルを抜けるとそこは三次の市街で、三江線最後の駅・尾関山に着く。尾関山を出ると今度は西条川を渡って左にカーブし、私の泊まるホテルの近くを通って三次に再び戻ってきた。

*1:ついでに言えば、待ち合わせの都合、例えば寒い中で長時間ホームで待つのは忍びない等の理由により、「一時出場」という形で改札を出ることもできる。東北や北海道ではこういったケースがよく見られる

*2:というより明らかな「途中下車」

*3:言うまでもなく備中神代駅無人駅のため

*4:新潮文庫最長片道切符の旅

*5:と書いているが、実は仕事場では結構コーヒーを飲んでいた。仕事をするようになってから再びコーヒーを口にするようになったともいえる

*6:境線沿線の後藤にJR西日本の工場があり、検査などで電車が自力入場できるように米子〜後藤間は電化されている

*7:現在は臨時列車を除くと1日3往復。他には札沼線浦臼新十津川間しかない

*8:既に周遊券は廃止されている。現在この付近をカバーしているのが「周遊きっぷ」の山陰ゾーンだが、木次〜備後落合間が周遊ゾーンに入っていない上、境界駅の木次がゾーンへの入り口に指定されていない

*9:現在の一畑電車。2006年4月に一畑電鉄持ち株会社になり、その下にできた一畑電車が電車の運営を行うように変更された

*10:さすがにあまりにもひどかったからか、1999年3月に出雲神西に改称している

*11:とかいていて今さらながら気付いたのだが、この列車はワンマン列車でしたね

*12:ちなみに浜原からの車両は浜田行きになるのだそうである

*13:キハ40 2002

*14:思いっきり哲学的ですが、第一これを書くのに電気を使っていることは分かっているのだろうね(笑)