スーパー白鳥13号運行記録3

このブログは超ぐうたらワンマン運転士の日常(もはや気が向いたら、という気もw)を書いたブログです。はてなダイアリーで公開していた運行記録2が今年の春になくなるため、新たに作成しました。2005年11月4日…「運行記録2」暫定開業/2005年11月14日…「運行記録2」本格開業/2019年1月13日「運行記録3」移行開業

不定期連載、最長片道きっぷの旅'93 vol.14

 1ヶ月に及び中断があり、申し訳ありませんでした。
 8月25日に掲載する予定でした掲載が諸事情により掲載の気力が失せ、そして次に旅による中断、そして旅から終わった後ネット切断の事態になり、気がつけば今日まで掲載が延びてしまいました。
 本当に申し訳ありませんでした。
 なお次回掲載はいつになるか分かりませんが、何とか早急に日誌を見つけだしたいと思います。


12日目(7月26日(月))雨
 米沢→山形→新庄→大曲→角館
45 米沢6:05→山形6:50(521M/1-2/クモハ719-5012)
46 山形7:48→新庄9:44(423/2-3/オハ50 2335)
47 新庄11:56→大曲14:01(2425/1-3/オハフ50 2459)
48 大曲15:08→角館15:34(846D/1-2/キハ48 1521)


 起きると、外はひどい雨であった。2日目の追分以来の雨であろうか。
 追分の場合は宿から駅まで歩いても大したことはなく、歩いて宿に向かったものだが、今日の場合はそうもいかない。昨日駅から宿まで歩いてみたのだが、迷って若干時間を潰したことを差し引いても20分程度はかかる。降りしきる雨の中、大荷物を抱えて20分も歩いて駅に向かう気力はなく、やむを得ずタクシーの世話になる。
 米沢駅山形新幹線開業を機に建て替えられた。まだ昨年(92年)の春に来た時にはまだ変わっていなかったのだが、その変貌ぶりには驚いたものである。
 6時5分発の山形行きはすでに2番線ホームに入っているはずで、改札の先にある2番線ホームにはすでに電車の姿があるのだが、何故か照明が落ちていて変な感じであった。変に思いながら改札を抜けると、その電車の山形寄りに2両編成の719系5000台の電車が停車していて、そちらの方は照明がついていた。ところが今度はドアが開いていない。その直前には東武の酒酔い運転士の話もあったので、もしかしたらと身構えていたのだが、何のことはなく、しばらく待っていると車掌がホームに現れて、ドアを開けてくれた。


 米沢6時5分発の山形行きは静かに米沢駅を離れた。さすがに電車は加速が良い。
 電車は雲の低くたれ込める中を進み、蔵王も今日は雲の中に隠れてしまった。
 山形新幹線開業を機に「つばさ」停車駅は新たに建て替えられたらしく、高畠は教会か西洋の城、赤湯はミニチュアの幕張メッセのような雰囲気だった。
 山形に着いた時、その変貌ぶりには本当にビックリしてしまった。
 かつて単身赴任した親のところに遊びに山形駅を利用したことがあり、その時には本当にこれが県庁所在駅? と思わせるほどにみすぼらしい佇まいだったのを覚えているのだが、何だか別の街に来たような錯覚さえ感じた。
 東西自由通路は5日前に開業したばかり、ホテルも11月開業を目指し整備中(もちろん現在は開業しています)と、山形駅のダイナミックな変貌ぶりにただただ唖然とするばかりであった。


 山形からは客車列車での旅になる。すでにこの山形の地にも701系電車が入り、11月には客車列車が山形から一掃されてしまう。恐らくこのあたりでは最後の客車列車の旅になるだろうと思いながら423列車の客となった。
 7時48分、山形駅を離れる。ドアが閉まった後、姑くの静寂があって、次の瞬間、ガクンと衝撃があって動き始める、それが客車列車の醍醐味なんだろうなと思いながら、後方に流れる山形駅のホームを見送った。
 北山形で左沢線を左に、羽前千歳で仙山線を右に分け、列車は山形盆地を北に進む。将棋で有名な天童は私も好きな駅の1つだったが、ここも駅舎が建て替えられてしまった。
 村山市の中心・楯岡(現「村山」)に8時27分に着いた。楯岡は北方領土探検の先駆者・最上徳内の生誕地として知られているのだが、観光名所があるわけではなさそう。この楯岡では40分停車する。
 後から追いかけてきた「月山1号」が楯岡駅に着き、先に出ていった。「月山1号」は、この列車が楯岡に着いた時、実はまだ羽前千歳を通過しようかというところであった。急行は早いなと思うと同時に、この列車の鈍速ぶりが哀れでならなかった。ちなみにこの列車は「月山1号」が楯岡を出た後も、20分弱楯岡に留まる。
 楯岡を出て、列車はさらに北を目指す。途中大石田のあたりでは近くに尾花沢市があったのだが、米沢などと同様に火事になっては困るからと尾花沢の街中に鉄道を引き込むことを嫌がったため、住民はわざわざ隣町に出て鉄道を利用しているのである。
 東北方面では米沢や尾花沢に限らず、町外れに駅がある町が少なくない。なぜ鉄道が嫌われていたのかというと、明治時代の鉄道は蒸気機関車が主流で、その排煙で町が汚れたり、あるいは排煙に残っている火種が原因で大火事になることを嫌ったため、といわれている。
 実際東北地方ではフェーン現象によって夏に高温乾燥状態になることも珍しくなく、(2007年になって埼玉・熊谷と岐阜・多治見に記録を更新されたものの)最高気温を記録したのも実はこの東北地方の山形であった。そして酒田や大館などで、街全体を覆い尽くすほどの大火事を経験したこともある。高温乾燥状態の東北地方ではひとたび火事が起こると、空気中に水分が少なく、さらに気温が高いので木などが引火状態になりやすいことから、火が燃え広がりやすい状況になるのだ。
 そういう経験上のこともあって、かつては鉄道を敬遠していた地域も少なくない。でも現在のように電車が走るようになると、逆に町から駅が遠いことが少なからず問題になることが多くなったようである。
 陸羽東線と合流し、南新庄を通過する。奥羽本線には南新庄駅がないので無視を決め込むが、需要が見込めないからか、あるいは昔の「管理局」の絡みからか、駅が作られる様子は見られない。*1
 9時44分、新庄到着。新庄から先の列車は県境越えのためか非常に本数が少なく、6時台に秋田行きの列車があった後、7時台に途中の真室川行き、そして次が11時56分の列車になる。余りに効率が悪いのだが、もはやどうしようもない。2時間もあれば散策するのもオツかなと思ったが、こちらもいつ土砂降りになってもおかしくないような状況で、その中を散策などしたくない。幸いにも駅に隣接してコンビニがあるので、そこで立ち読みして時間を潰すことにした。


 新庄11時56分発の秋田行き2425列車は、423列車と同じ50系客車3両編成であった。しかも客車そのものは違っているが、機関車が先ほど423列車を牽いてきたED75 723であった。
 2425列車は、悪い意味で予想通りとなった土砂降りの中、新庄を発車した。DD14や「あけぼの」のヘッドマークをつけたDE10*2が休む新庄機関区を横目に通過していく。
 雨が激しく客車の屋根を叩く。モーターもエンジンもない客車列車だから、雨が屋根を叩く「カツンカツン」という音がダイレクトに客車内に響く。停車駅ではずぶ濡れになって列車に乗る人、無人の駅舎の中で豪雨に立ち向かう準備をしている人など様々である。
 秋田県に入った院内、横堀から客が増えはじめる。横手や大曲に向かう人たちであろうか。湯沢あたりからは制服姿の高校生も乗り込んできた。関東ではもう夏休みなのだが、東北はまだ休みではないのだろうか。
 横手13時31分着。半分くらいの乗客が降りた。後三年(不思議な駅だが、俗にいわれる「後三年の役」はこの付近が戦場になったようです)では上り快速の待ち合わせをするのだが、通過した快速はすでに701系電車に変わっていた。
 大曲14時01分到着。最初はこの大曲で打ち切る予定であったが、秋田内陸縦貫鉄道経由の方が安いということもあって、最終的にさらに田沢湖線を遡った角館で終わりにすることを決めた。後で改めて書くことになるが、最終的にこの選択は間違っていなかった。
 大曲ではお金を引き出すために駅傍の郵便局に立ち寄ったが、ATMに千円札が引っ掛かってしまい故障するというトラブルに巻き込まれた。
 大曲からの田沢湖線は、それ専用のディーゼルカーで好感がもてた。学校がまだ夏休みに入っていないのか、あるいは部活動帰りなのか、高校生の利用が目立つ。
 15時34分、角館到着。改札氏に下車印を捺して貰い、秋田内陸縦貫鉄道の駅舎に入っていった。

*1:後日調べてみたのですが、かつて仮乗降所があったらしいです。また陸羽東線の中で南新庄だけは秋田鉄道管理局管轄だったそうです

*2:当時「あけぼの」は陸羽東線を経由していた