スーパー白鳥13号運行記録3

このブログは超ぐうたらワンマン運転士の日常(もはや気が向いたら、という気もw)を書いたブログです。はてなダイアリーで公開していた運行記録2が今年の春になくなるため、新たに作成しました。2005年11月4日…「運行記録2」暫定開業/2005年11月14日…「運行記録2」本格開業/2019年1月13日「運行記録3」移行開業

不定期連載、最長片道きっぷの旅'93 vol.22

 とにかく何もできない時にこれは最高の暇つぶしになります(ぇ
 あと10日か… 長いな…
 ということで、今日から第3部に入ります。第3部は大宮から大阪・京橋までとなります。
 さて早速第3部のスタートを…


 第21日目(8月7日(土))曇りのち晴れ
 大宮→高崎→小出→会津若松
100 大宮7:22→高崎8:09(「あさま1号」/1-9(9号車)/クハ188-102)
101 高崎8:22→水上9:40(731M/4-6(新前橋)1-3/クモハ115-1027)
102 水上9:45→越後湯沢10:20(1731M/2-5/クモハ114-1504)
103 越後湯沢11:19→小出11:56(1733M/1-2/クモハ115-1559)
104 小出12:57→会津若松16:41(434D/1-2/キハ52 108)


 私が起きた時、時計は6時半をさしていました。
 …もはやお話にならない状況です。今日は只見線があるので大宮5時39分発の高崎線始発電車で向かう予定でしたが、その列車はすでに自宅から50km以上離れた深谷の先を走っている。
 慌てて家を出て大宮に向かう。バスの中で次善策を練る。今からなら新幹線「とき471号」に間に合うな、と思う。しかし高崎着は7時44分。高崎からの水上行きは1分前に発車してしまっている。その前の新幹線は既に大宮を出た後であった。それに新幹線は高すぎる。
 在来線に目を転じると、大宮7時22分発の「あさま1号」がある。高崎着は8時09分、次の水上行きは13分しか余裕がない。ルールを重視すると今日は会津若松には出られないし、かといって既に宿はとっている。困ったことに只見線だけでなく上越線の県境越え(水上〜越後湯沢)も列車がまともにない区間である。仕方がないので高崎と水上は駅前の様子も分かっているので目をつぶることにした。それにしても昨日は1日休みにしたはずなのに、よく寝たものだ。


 大宮7時22分発の「あさま1号」は予想通り込んでいた。
 帰省が始まっているのか、あるいは土曜日なので軽井沢辺りに遊びにいくのか、とにかく座席にありつくことはできず、仕方なく先頭車の運転台後ろの通路に立ちんぼになる。
 すぐそばでアベックがいちゃついているのを横目で見ながら、早速新聞に目を通す。
○ 土井たか子社会党委員長の衆議院議長就任+細川護煕日本新党党首の首相指名
○ 長嶋巨人、新幹線事故で災難に遭う
○ 九州南部の集中豪雨で鉄道・道路が各地で寸断
 (竜ヶ水の救出劇もこの日である)
 それにしても93年8月6日は相当トピックスがあった日だなと今でも思う。
 ただこのうちの1つ、九州南部の集中豪雨の爪痕はひどく、後日相当に困ったことになったことをここで記しておくことにする。


 8時09分、定刻に高崎駅1番線ホームに「あさま1号」は到着した。階段を上り下りして水上行きの発車する4番線ホームに急ぐ。
 8時22分発の水上行きは、6両編成で待っているが、前の3両は2つ先の新前橋で切り離されるとのことで、後ろ3両に固まって乗っている。床はキャンプにいくらしい子供たちの荷物で足の踏み場もないくらいであった。
 新前橋で前の3両を切り離して3両編成の身軽な出で立ちになった731Mは沼田で「新特急谷川1号」に道を譲る。「谷川1号」はこの後後閑、上牧、水上と各駅に停車するのだから、別に先行させる必要などないような気もするのだが、水上の配線の関係だろうか。(その後考えるに、特急を先にホームに停めて、水上以遠の電車に優先的に座席を取れるように配慮していたのかもしれない)
 山が迫り、上り線だけがトンネルの中に入り、窓の外にホテルが見え出すと水上は間もなくである。9時40分水上駅1番線ホームに到着、また階段を上り下りして2番線ホームに停まっている新潟行きに乗り込むが、5両編成の電車の中には既にボーイスカウトの子供たちが中にいて、そこにキャンプの子供たちと清瀬の中学校の野球部員たちも入ってくるような状況で、さっきの電車以上の混み具合になる。もはや座席に座ることは諦めるしかなさそうであった。
 水上を出るとしばらくは利根川に沿って走るのだが、しばらく走ると山の中腹に上りループ線の架線が見え、それを見届けたこちらは意を決したかのようにトンネルに入って湯檜曽のトンネル駅に着いた。もはや車内は足の踏み場もないような状況なのだが、ここでさらにキャンプ帰りらしきジャージ姿の子供が100人ほどホームで待っていた。
 次の土合は有名なトンネル駅で、谷川岳の登山客やスキー客のウォームアップのためか、500段近い階段にエスカレーターを設置する気配が全くない。この駅で夏山の登山客やボーイスカウトの子供たちが降りていった。
 国境のトンネルを抜けると、そこは雲一つない青空だった。どうやら暑くなりそうだな、と思ううちに越後湯沢に到着。団体様御一行はほとんどこの駅で降りた。
 越後湯沢でおりたのは別に大した理由はない。ただこのまま小出に行っても2時間近く只見線の列車を待たなければいけないし、それなら越後湯沢からなら1時間に1本は列車があるからと時間調整のために降りただけのことである。駅には温泉「プラトーゆざわ」があり、1日1030円で何回でも入れるそうなのだが、何しろ1時間しか滞在時間がないので、1030円を出して入ろうという気が起きない。
 越後湯沢11時19分発の長岡行きは2両編成でトイレなし。列車は魚野川を右に見ながらトコトコと進む。この辺りは冬は全くの白世界になるのだろうが、今は稲の緑が映えている。
 11時56分、小出駅に到着。ここで只見線に乗り換えることになる。


 小出は駅前だけ見れば大したところではなく、どうしてこんなところにかつての特急「とき」を停めたのだろうか、と訝しげに思うようなところである。もっとも小出の中心街は魚野川を挟んだ反対側にあり、それなりに栄えているようである。駅前の食堂でざるそばを食べた後、今日最後の列車に乗り込む。まだ昼を過ぎたばかりなのだが、会津若松到着が16時42分と結構な時間で、その後の磐越西線の喜多方方面の列車は2時間近くなく、その列車を待つと喜多方にでは日が暮れるので、今日は会津若松で泊まることに決めていた。
 12時57分、会津若松行きはゆっくりと動き出した。右に曲がりながら左に消えていく上越線を見送り、間もなく魚野川を渡る。とりあえずそれなりに乗りがあるのだが、この只見線はいつ廃線になってもおかしくないくらい経営状況は厳しいとのこと。ただ平行する道路が不通になるという理由で廃止を免れたいきさつがある。
 入広瀬は「山菜共和国」の入口だが、降りたのは地元の人たちだけで、観光客は誰もおりなかった。一部の列車しか停まらない柿ノ木を通過し、新潟県最後の大白川を発車する。大白川を出たところで、子供たちがプールで水遊びを楽しんでいた。
 六十里越トンネルを抜けると、ダム湖のほとりの田子倉に着く。ここでキャンプ帰りなのだろうか、家族連れが乗ってきた。さらにトンネルを抜け、水着姿の子供たちに迎えられて只見に着いた。
 只見からは只見川に沿って走る。この辺りでもダムがあるからか、川幅が結構広い。何となく「ダム湖の数珠つなぎ」という印象もしないではない。またこの区間はトンネルが連続する区間でもあり、非冷房のキハ52では窓を開けたり閉めたり大変である。
 会津川口は昨年(92年)春に訪れた時には感動したのだが、あまりに只見川がうっとりする川だからか、今回は特に感動するようなことはなかった。ただやはりのどかなところだな、という印象はあって、機会があったらまた訪れたいと思わせる雰囲気があるのかもしれない。
 途中眠くなり、気が着くと会津坂下に着いていた。ここからは会津盆地に入るのだが、只見線はなぜか若松の町を避けるかのように南に向きを変える。磐梯山や若松の町並みが大分離れていったなと思う頃に進路を東にとって、会津高田でこの列車2度目の列車待ち合わせをする。100km以上走って列車の待ち合わせが2回というのも、ある意味凄いなという気もする。そしていつの間にか後方にあったはずの磐梯山が前方に移り、阿賀川を渡ると右側に移っていった。
 阿賀川を渡ると家並みが増えてきたように感じる。既に若松市街に入っているのだろうか。右から会津鉄道が近付くと西若松である。西若松で小出から続いていたタブレット閉塞区間は終わりになる。
 市街地の中心の七日町を過ぎると、間もなく今日の宿のある会津若松に到着する。16時41分、定刻より1分早く到着した。