スーパー白鳥13号運行記録3

このブログは超ぐうたらワンマン運転士の日常(もはや気が向いたら、という気もw)を書いたブログです。はてなダイアリーで公開していた運行記録2が今年の春になくなるため、新たに作成しました。2005年11月4日…「運行記録2」暫定開業/2005年11月14日…「運行記録2」本格開業/2019年1月13日「運行記録3」移行開業

不定期連載、最長片道きっぷの旅'93 vol.20

 いつ頃からの再開だろう、久しぶりですね(笑)
 ということで久しぶりに「最長片道きっぷの旅'93」の記録を再開します。
 ちなみに3日の記録については後刻書き加えられたものなので、若干おかしな点があるかもしれません。ご了承を。
 何しろ実際の旅行に記録が追い付かないので、どの記録も残り2日の記録がすっ飛んでいまして。*1
 そこのところはなんとか記憶をフル動員して埋め合わせようとは思っております。(笑)


 18日目(8月3日(火))雨
 新宿→上野→秋葉原→千葉→成田→松岸→成東→大網
78 新宿8:27→上野8:52(809/10-11/サハ204-6)
79 上野9:58→秋葉原10:01(929/10-11/サハ204-7)
80 秋葉原11:09→千葉12:00(1035B/10-10/クハ200-151)
81 千葉13:07→成田13:38(1447M/1-4/クハ111-1078)
82 成田14:37→松岸15:50(451M/4-4/クハ111-1302)
83 松岸16:45→成東17:36(378M/3-4/モハ113-1101)
84 成東18:21→大網18:42(658M/1-4/クハ111-569)
外 大網19:15→千葉19:42(660M)


「最長片道きっぷの旅」の最中なのだが、どうも自宅で寝るとそんなことをやっているとはとても思えない気分になる。が困ったことに、20日以上かけて旅をしたその次の日に、また旅をしなければならない。
 今日からの旅は1泊2日の旅で、その間に房総地区を回ることになっている。


 自宅から埼京線で新宿に向かい、7時頃新宿に着いた。雨が降っているのでなかなか外には出られず、仕方ないので最近移ってきた新都庁への地下道を歩いてみる。新宿駅から地下道がつながっているのだが結構遠い。またこの地下道がきれいで快適だからだろうか、浮浪者が段ボール製の「家」を作って住んでいた。都庁地下の吹き抜けの広場まできたところで私は引き返すことにした。広場は雨ざらしになっていて、人の気配はなかった。
 新宿駅は山手線や中央線、営団丸ノ内線、都営新宿線が通過し、埼京線西武新宿線京王線小田急線のターミナルになっているから、とにかく客の出入りが激しい。列車が着いてドアが開くと、全てのドアからドーッと人が吐き出されていき、そしてそれが収まったかと思うと今度はホームにいた人がドーッと列車に入っていき、あっという間に社内がぎゅうぎゅう詰めになっていく。こういった光景が電車が着く度に繰り返されていく。
 私は20分ほどその光景を見ていたが、8時27分、着いた山手線外回り電車の客となった。
 山手線は最も儲けの大きい路線である。恐らくJR東日本有数のドル箱路線であることは間違いないだろう。こういう路線は概して車窓がつまらない、といわれるのだが、普段乗らない私にしてみれば新鮮な景色であるようには感じた。登場した当初から「貨車なみ」と酷評された6扉車のサハ204に好き好んで乗る人はそう多くなく、ほかの車両に比べるとかなり空いていた。
 8時52分、上野に到着。一旦ここで降りることにする。
 上野は私の好きな駅の一つで、かつての東北本線高崎線に特急が走っていた頃のような賑やかさはなくなっているとは言え、やはり風情がある駅、という印象を受ける。未だに頭端式ホームが稼働しており、ターミナルとしての情緒が残っているからなのかもしれない。折しも札幌から16時間かけて走破してきた「北斗星2号」が13番線に入ってくるところであった。
 やはり上野駅はターミナル、そんな風に感じさせる一こまであった。


 上野からはまた山手線で秋葉原に向かう。私の場合は、とにかく乗った列車の全車両の車番を控えている。ところが上野から秋葉原までは2駅4分しかなく、これでは車番を控えようがない、そう感じるだろう。
 ところが私はちゃんと11両分の車番を控えている。これは山手線ならではの大きな理由がある。山手線はほぼ1時間で1周をしてくるので、1時間後には同じ編成が同じ向きで着くことになるのだ。これなら一回列車に乗った時に控えていれば、それと同じ列車に乗れば控えずにすむ、ということになる。
 ところが、実は私が新宿から乗った電車は、実は途中の大崎で車庫に戻る編成だった。なぜそれに気付かないかというと、山手線は途中で行き先を切り替える時には途中の駅で切り替えることになっていて、大崎で止まる場合には池袋で行き先を「山手線」から「大崎」に変えるのだそうである。当然新宿で乗った場合には「山手線」の表示なので、それが大崎行きになることは分からないのだ。
 仕方がないので上野で降りた後、次の電車の行き先が「山手線」になっていることを確認して車番を控えることにしたのである。これも池袋で止まる編成だったら問題があるのだが*2さすがに2列車続けて途中駅止まりということはあり得ないだろうから、この電車が1時間後に戻ってくることを信じて待つことにしたのである。
 この電車はちょうど御徒町を出たところで10時になり、サハ204の座席が使えるようになる。ボタンを押すと3人がけのシートが壁に収納されていた3人がけのシートが出てくる仕組みになっているのだが、座席が現れると「貨物なみ」と酷評されたサハ204の雰囲気が少し変わったような気がした。


 秋葉原駅の電気街口を出て電気街を抜けると交通博物館がある。*3
 交通博物館は今でこそ営業を辞めて「鉄道博物館」という形で大宮に移設されているが、ここの1回の鉄道関係の展示には機会がある毎に足を運んだものである。この交通博物館はかつての万世橋駅の跡地に作られたため、上を中央線の電車が通る度にガタガタと振動がおこったものである。この交通博物館の上の中央線は、明日通過することになっている。
 秋葉原から千葉行きの電車に乗り、12時ちょうどに千葉に着いた。
 千葉はちょうど総武線成田線外房線内房線の分岐点にあたり、その両者が大きくカーブする付け根のところに駅舎がある。その駅前にモノレールの駅などがあって、ちょうど昼飯時ということもあるのか、結構にぎわっている印象であった。
 13時07分発の成田行きは雨の中を快調に飛ばす。この辺りは大雨が降ると列車が止まってしまうほど雨には弱いとされてきたところだが、この程度の雨ならまだ大丈夫、といわんばかりの走りっぷりであった。9分後に鹿島神宮行きの「あやめ5号」が追いかけているのだが、結局抜かされることなく成田に着いた。


 成田は新東京国際空港があり、外国客にとってはあまりに有名な町だが、もともとは成田山新勝寺門前町で、成田駅前は空港の駅というよりはむしろこちらの色彩の方が強い。この辺りの高校なのだろうか、緑色のセーラー服の女子高生があちこちに立っていた。
 成田からは成田線は3つに別れる。戸籍上は佐倉〜成田〜我孫子が本線で、成田〜松岸の「佐原線」と成田新幹線の建設後を利用した「空港線」が分岐する形なのだが、運行実態としては千葉から来た列車は「佐原線」や「空港線」に入ってしまい、本線を直通する列車はない。もっとも本線の成田〜我孫子間は千葉経由で東京に出るよりも上野に出る方が早く、成田からの電車が常磐線経由で上野に行くこともある。


 成田14時37分発の銚子行きは千葉始発の電車である。いつものように後ろのドアから入ろうとしたら、車内から「お客さん、ここからは入れませんよ」と声をかけられた。よく見るとそのドアの部分は荷物車として仕切られていて、新聞などが積まれていた。外房線内房線は専用の荷物電車が走っているのだが、この辺りではそこまでの需要がないのかもしれない。
 成田からしばらくの間は複線のようである。空港線開通に伴って複線化されたのだろう。しばらく走っていると成田新幹線のコンクリートアーチが現れ、それが見る見る近付き上を越す辺りで右側を走っていたレールが右に曲がっていった。
 その先はあまり変わり映えのない田園地帯をトコトコと走っていくのだが、ここに来て私の体調が怪しくなってきたようである。雨に当たり過ぎたのだろうか、身体がだるくなり、熱も出ているように感じた。
 15時50分、松岸に着いたので列車を降りたが、外は雨が降り続き、身体もだるいので外歩きもままならない。いい加減30分ルールを無視してさっさと終わりにしたくもなってきたのだが、あいにくと成東方面はさっき出たばかりで、次は16時45分までない。
 やっとのことで乗り込んだ16時45分発の成東経由千葉行きではとにかく動かずにじっとしていることにした。この列車の成東の時刻は17時38分しか書いてなく、同じ時刻に発車する東金線の電車には乗れないように見える。でもこの付近は単線で列車が同時に1本の線路を通ることはできないわけだし、そう考えると17時36分には銚子行きが成東から出るのだから、少なくてもこの時刻までには成東に着いているだろう、と。
 果たして17時35分には成東駅の1番線ホームに到着し、反対側後方の0番線ホームには17時38分発の成東線電車が待っていた。でも結局はその電車に乗るのはやめることにしてしばらく駅に留まることにした。
 松岸や成東といった駅はどうも昔の国鉄時代の雰囲気を色濃く残しているような感じがした。このあたりも20年前に電化されたのだが、それだけの年月が経っても洗練された感じがなく、何となく時間が止まってしまっているかの印象を受ける。
 18時21分発の大網行きで大網駅に向かう。そろそろ闇にまぎれそうな時間帯だが、ここではしばらく左側の車窓を眺めることにする。間もなく大網というところで突然開けたところに出て、そこから左の方にレールの跡がまっすぐ消えていく。ここはかつての大網駅があったところで、ここから外房線はレールの後の消えていった方に向かって通っていたのだ。ところが電化の際に外房線スイッチバックが忌み嫌われ、千葉寄りの方に新たに駅が作られたわけである。*4
 その新・大網駅に18時42分に着いた。旧外房線上に作られた東金線ホームと電化の際に作られた短絡線上の外房線ホームとに挟まれた、ミニ千葉駅のような駅である。この付近にはホテルらしきものは余りないし、お金も余り豊富にあるわけではないので、一旦千葉に戻ってカプセルホテルで1泊することに決めている。
 2度目の千葉駅から今日の宿となるカプセルホテルまでの距離が結構あって時間がかかり、ホテルに着いた時には体調が悪いこともあってもう何もする気がなくなっていた。

*1:実は旅行をしながら旅行記を書いていたもので、だいたい2日くらい遅れることが日常茶飯事だったりします。で第2部、第3部、第4部の最終2日は記録が欠落しているわけです。ただし乗った車両については記録をつけていますのでそれは確実に公表できます

*2:池袋で止まる場合は、品川か大崎で「池袋」表示にするそうである

*3:交通博物館は2006年5月14日に閉館、後に「鉄道博物館」として鉄道関係の資料が埼玉新都市交通ニューシャトル旧大成駅(現鉄道博物館前駅)に移設される

*4:1972年に移設された。なお短絡線は1997年まで残存していた