スーパー白鳥13号運行記録3

このブログは超ぐうたらワンマン運転士の日常(もはや気が向いたら、という気もw)を書いたブログです。はてなダイアリーで公開していた運行記録2が今年の春になくなるため、新たに作成しました。2005年11月4日…「運行記録2」暫定開業/2005年11月14日…「運行記録2」本格開業/2019年1月13日「運行記録3」移行開業

コミックス28巻発売記念(笑)よもやま話

 ということで本日「AKB49〜恋愛禁止条例〜」第28巻が発売されました。
 とうとう浦川みのりの卒業生誕祭が始まるラス前の28巻の表紙は吉永寛子。これでラスト29巻は浦川みのり確定、なのか?
 ところでこの第28巻に絡んだよもやま話を。


 「28」といえば…
 ちなみに1巻からの表紙の登場メンバーを書いておきます。


1巻 前田敦子&浦山実
2巻 大島優子浦川みのり
3巻 渡辺麻友&浦山実
4巻 高橋みなみ浦川みのり
5巻 柏木由紀浦川みのり
6巻 篠田麻里子浦川みのり
7巻 板野知美&浦川みのり
8巻 小嶋陽菜浦川みのり
9巻 指原莉乃&浦山実
10巻 宮澤佐江浦川みのり
11巻 峯岸みなみ浦川みのり
12巻 松井珠理奈浦川みのり
13巻 松井玲奈&浦山実
14巻 北原理恵&浦山実
15巻 島崎晴香&浦川みのり・吉永寛子
16巻 横山由依浦川みのり・吉永寛子
17巻 山本彩浦川みのり・吉永寛子
18巻 渡辺美優紀浦川みのり・吉永寛子
19巻 小笠原茉由浦川みのり
20巻 山田奈々&浦川みのり
21巻 須田亜香里浦川みのり
22巻 兒玉遥浦川みのり
23巻 川栄李奈浦川みのり
24巻 宮脇咲良浦川みのり
25巻 有栖莉空
26巻 水野春子
27巻 岡部愛
28巻 吉永寛子
(29巻(最終巻) 浦川みのり、の予定)


 こうやって書いていくと、いろんな因縁というか、いろいろありますよね(笑)
 1巻の前田敦子から3巻の渡辺麻友まではA、K、Bそれぞれのセンターなんだけど、2巻の大島優子の時はみのりなのに、1巻の前田敦子と3巻の渡辺麻友は実が登場、前田敦子はもともと実が男だと気がついていた人だし、渡辺麻友は実の機転で男バレは避けられたけど、実質的にみのりが男だと見破っていたわけで、ある意味意味のあるコンビのように感じます。
 4巻の高橋みなみ編はまさに「たかみな祭り」と言わんばかりの状況で、「たかみな」というタイトルの話があるわ、「たかみな先輩」がキャラ投票1位(!)記念漫画に登場するわ、ホントこの時はすごかったです(笑)
 で、みのりが寛子を公開ビンタしたのが14巻。当然この後総選挙終了の24巻までみのりと寛子の「見かけ上の」喧嘩が続くのだが、それが「見かけ上の偽装」と言わんばかりに、次の15巻からしばらくはみのりと寛子が一緒に登場するショットが続く。
 でみのりが卒業を寛子に告白する25巻から終わりが見えてきたかのように、オリジナルキャラ単独のショットに変わってきたわけです。


 で「28巻=吉永寛子」となって、ちょっと思い出した人がいまして。
 現在のF1ではドライバー別固定ナンバー制をとっている*1ので、こういう事はあまりないのですが、コンストラクター別固定ナンバー制*2になった1973年からコンストラクターランキング別*3のナンバリングになった1995年までの9年間で7回同じ番号をつけていた選手がいて、それが実は「28番」のゲルハルト・ベルガーなんですね*4
 デビューした年から3年間は様々な番号をつけていたが、1987年にミケーレ・アルボレートの相棒として28番をつけるようになってから、3年間フェラーリで28番をつけ続ける*5。そして90年にマクラーレンに移籍するが、その前年の89年にワールドチャンピオンになったプロストフェラーリに移籍したために、89年にマクラーレンがつけていた1・2番とフェラーリの27・28番がトレードされ、アイルトン・セナが27番を取り、ベルガーがチームが変わっても28番という珍現象が起こってしまった。
 その後セナが連覇したためベルガーもマクラーレン時代の2年目、3年目は2番をつけたが、93年にセナ優勝に伴って27・28番が戻ってきていたフェラーリ*6に戻ってきて、アレジが27番、ベルガーが28番の体制が3年続くことになる。
 こんな例ってなかなかないですよね(笑)だから28番というとベルガーの番号として記憶に残っているんですよね。しかもその翌年からコンストラクターズランキング順のナンバリングになり、エントリー台数が減ったこともあり28番はなかなか登場しなかったからなおのこと。
 あの気難しいセナとも仲が良く、アレジとも引退するまで、それこそベネトン移籍を一緒にしてまでアレジと一緒に5年間一緒にやってきた、ある意味ベストナンバー2の鏡ともいうべき存在であった。そういう意味では浦川みのりがピンチになった時に巧みにカバーする寛子の存在って、一時は「副官」という言い方をしていたけど、うまくエースを立てるスキルは十分にあるように感じます。


 でもだからといって決してそれでいいと甘える人ではなく、しっかり優勝を10度しているわけですが、その多くは印象に残る勝ち方をしているわけです。
 87年に復活した初めての日本GPを制し、エンツォ・フェラーリが亡くなって弔い合戦となった88年イタリアGPでも勝ってマクラーレンの完全勝利*7を唯一阻み、92年は第2期ホンダエンジンとしての最後の勝利、94年はかつての親友のセナと同郷のラッツェンバーガーを相次いで亡くした「暗黒のイモラ」*8を乗り越えて高速ホッケンハイムフェラーリに4年ぶりの勝利をプレゼントし、ベネトンに移籍した97年には病気で3戦欠場した復帰戦のホッケンハイムでいきなりハットトリックポールポジションを取り、ファステストラップを記録したうえでの優勝)を決めるといった「光る場面」を作っていった。
 そのあたりも、みのりの後ろでもキラリと光る部分を魅せてきた寛子に通じるところもあるように思いました。


 そして最後にベルガーを語る時に忘れられないのが91年の日本GPの優勝。
 これは実はチャンピオンを決めたセナが最終周の最終コーナーでわざとベルガーに抜かせた結果転がり込んだ勝利だが、ベルガーはそれに激怒、監督のロン・デニスを交えて激しい口論になったとか。
 まさに大島優子からみのりは8位以内になったら寛子にセンターを張らせようとしていると言われて激怒し、みのりを高橋みなみの前でひっぱたく寛子と完全にかぶってますねw


 あと1つ書きたかったのですが、時間が時間ですし、明日(てかもう今日ですね)も仕事なので、一旦切ります。


AKB49の「12期生」は「1+2期生」なのか?


 特装版には12期生のメンバーのイラストがついたワッペンがついている。
 これを見る限りでは、浦川みのり卒業公演時には6人の12期メンバーがいることが分かる。
 浦川みのり(A+国内全兼任)、吉永寛子(K+国内全兼任)、水野春子、前園千絵、前園理歌(以上3人は「4」)、田子千明(判明している時点では所属は不明、恐らくチーム4であろうと思われる)
 でこのワッペンの順番を見るとあれ、と思うのだが。
 トップにいるのは浦川みのりではなく水野春子なのだ。
 もともと研究生時代は浦川みのりが12期を牽引していき、吉永寛子がそれを見てついていくスタイルで、最初は水野たちは少し距離を置いている感じであった。
 しかし1万円公演の時から水野が積極的にみのりや寛子と絡むようになり、寛子がそもそもチーム全体のバイスキャップというよりみのり個人についていう雰囲気もあって、じきに12期のバイスキャップの存在になっていく。
 そしてみのりと寛子が12期で最初に正規に昇格し、残された12期研究生を牽引する役割に自然と水野が立つようになり、その補佐に前園姉妹の姉である千絵がつくようになった感じである。
 そしてこの12期はある意味「華の1期」と「団結力の2期」を兼ね備えた集団になっていく。
 「華の1期」にあたるのがみのりと寛子の2人。屈指のリーダーシップを発揮して早くから12期でも突出した存在になった「高橋みなみ型」のみのりと、そのみのりに触発されるように自分を成長させた「前田敦子型」の寛子が選抜でも屈指の顔になっていくことになるが、同時に水野たちを中心とした「団結力の2期」が2人のエースを支えていくスタイルを確立させたからこそ、12期メンバーが屈指の仲の良さを発揮できたのではないかと思うのです。

*1:ちなみに2015年は前年度チャンピオンのハミルトンがチャンピオンナンバーの1番でなく固定ナンバーの44をつけるため1番が欠番になっているが、1番の欠番は過去にあり、93年と94年のデーモン・ヒルは前年度チャンピオンのナイジェル・マンセル(92年)とアラン・プロスト(93年)が翌年度のF1に参戦しなかった(マンセルはインディ移籍、プロストは引退)ので2年連続でカーナンバー0をつける稀有な存在となった。ちなみに後述のネルソン・ピケ(87年)の他、デーモン・ヒル自身も96年にチャンピオンになった翌年にアロウズ移籍となったため、83年にケケ・ロズベルグがつけてから98年にジャック・ヴィルヌーヴが97年にチャンピオンを獲ってカーナンバー1をつけるまで、ウィリアムズはワールドチャンピオンを4人も輩出しながら翌年カーナンバー1をつけない稀有なチームになっていた

*2:ワールドチャンピオンが所属するチームのカーナンバーと前年度1・2番をつけたチームが違う場合はトレード。88年は前年度チャンピオンのピケがロータスに移籍したため、その時マクラーレンがつけていた1・2番とロータスの11番と12番とのトレードになり、ピケ1番、中嶋悟2番、プロスト11番、セナ12番でエントリーすることになった。そういえばセナもロータス(85〜87年)からマクラーレン(88年)にかけて4年連続で12番をつけていたわけですね、しかも87年にはルーキーの中嶋悟に11番を譲っているしw

*3:チャンピオンになった選手の所属チームが1・2番をつけるのはこれまで通り。97年はデーモン・ヒルがウィリアムズでチャンピオンになりながらアロウズに移籍したので、アロウズが1・2番といおうこともあった。

*4:ちなみに96年はベネトンミハエル・シューマッハがタイトルを獲ってフェラーリに移籍、アレジとベルガーがそろってベネトンに移籍したが、ベネトンコンストラクター1位だったのでアレジが3番、ベルガーが4番になっている

*5:因みに89年に27をつけたのがマンセル

*6:ちなみに91年〜92年のフェラーリは27番がプロスト(91年)→ジャンニ・モルビデッリ(プロストがトラクター発言で91年最終戦前に解雇)→アレジ(92年)、28番はアレジ(91年)→カペリ(92年)→ニコラ・ラリーニ(日本GP前にカペリ解雇)

*7:この年16戦でセナ8勝、プロスト7勝とマクラーレンだけで15勝していた

*8:セナが亡くなったタンブレロは危険な超高速コーナーとして知られていて、87年はピケが初日の予選で事故を起こし、89年にはベルガー自身がレース中にセナと同じように突っ込んでマシンが炎上する事故が起こる。また92年にはパトレーゼもテストで事故を起こす。考えてみればここまでの4件の事故のうち、3件までもがウイリアムズのマシンというのも偶然だろうか。