スーパー白鳥13号運行記録3

このブログは超ぐうたらワンマン運転士の日常(もはや気が向いたら、という気もw)を書いたブログです。はてなダイアリーで公開していた運行記録2が今年の春になくなるため、新たに作成しました。2005年11月4日…「運行記録2」暫定開業/2005年11月14日…「運行記録2」本格開業/2019年1月13日「運行記録3」移行開業

不定期連載、最長片道きっぷの旅'93 vol.24

 久しぶりに「最長片道きっぷの旅」の記録を出します。
 個人的にはこれも早く終わらせたいネタなのですが、何しろ気が乗らないと(いつも大作になっちゃうのでw)書かないですから…
 今日もどうなるんだろうね、ちなみに書き始めは12時47分です。


 第23日目(8月9日(月))晴れのち曇り所によりにわか雨
 柏崎→宮内→越後川口→豊野→直江津糸魚川
111 柏崎5:56→宮内6:33(1323M/1-3/クモハ165-126)
112 宮内7:28→飯山10:20(1120D〜130D/1-1〜2-2)
  (十日町までキハ52 122、十日町からキハ52 101)
113 飯山11:44→豊野12:22(132D/1-2/キハ58 411)
114 豊野13:26→直江津14:55(341M/1-3/クハ115-1249)
115 直江津16:34→筒石16:54(566M/1-3/クハ418-3)
116 筒石17:44→糸魚川18:05(570M/2-3/モハ418-14)


 今日は5時56分発の新潟経由豊栄行きがスタートとなる。改札口前の1番線ホームからなのでそれほど急ぐ必要もない。
 柏崎を出るとタンク車の群れを左に見ながら進む。柏崎には油田も温泉もあるのだ。一見何の変哲もない町に見えるだけに不思議である。
 安田や北条も何の変哲もない駅なのだが、この付近にもかつては城があったのだという。もっとも砦のような存在だという話なのだが、それにしてもこんなところにまで、という気がしないでもない。
 宮内に6時33分に到着。宮内は橋上駅舎で、駅の北西側にも宅地が広がってきたからであろうか、自由通路も自転車が通れるようにスロープ状になっている。駅の事務所に連絡があり、「あおもり」が4時間10分ほど遅れている、という話が聞こえてきた。「あおもり」は20系客車を使用した急行で、確か宮内は4時頃に通過することになっている。それが4時間も遅れているというのだから、何かが起きているのであろうか。そう言えば7時15分頃通過する予定の「きたぐに」も見かけなかった。


 宮内7時28分発の列車はキハ52の1両「編成」である。このキハ52クロスシートの一部がロングシートになっていて、いわゆる「特等席」がない。長岡始発なのでボックスシートは埋まっていて、やむを得ずロングシートに座った。
 列車は信濃川を右に見ながら快調に飛ばす。今でこそたんぼに稲がきれいに生い茂っているのだが、冬になればここも一面雪に隠されてしまうのかと思うと、なんだか不思議な気がしないでもない。
 ポイントをガタゴトと渡って越後川口飯山線ホームに入る。私が乗っている列車は1日2往復しかない長岡直通の飯山線列車なので、越後川口での乗り換えの必要はない。タブレットをもらい、信号が青に変わったのを確認すると、ドア扱いが行われ、出発態勢が整う。7時54分、飯山線の旅が始まった。
 飯山線は今でこそ一ローカル線としての存在でしかないのだが、かつては信濃川千曲川に沿って通るこのルートこそが信越本線として期待されていたのであった。しかし当の飯山で舟運が寂れると反対し、結局飯山を通らず直江津を目指すルートで建設されることになった。そして結果的に飯山の舟運は寂れ、慌てて鉄道建設の請願を出した、といういきさつがあったのである。当時の国鉄はすでに直江津経由でできているのにわざわざ新たに建設する理由はない、と反対したので、結果的に私鉄で開業したという経緯がある。(1929年に全通、1944年に国鉄に買収される)
 30分ほど走り、突然という感じで建設中の北越北線*1のコンクリートアーチが現れると十日町である。この十日町では23分ほど停車し、その間に1両増結する。列車番号も変わり、乗り通す客さえいなければ全く別の列車のようである。この十日町でやっと朝食(といってもスナック菓子だが)をとることができた。
 130Dと列車番号の変わった列車は8時44分、再び飯山線の旅を始める。北越北線のコンクリートアーチがどんどん地平に降りてきて、地上に着いたと思ったらトンネルに入る。現在では地層の問題さえクリアできればトンネルの方が進みが早い。北越北線は地形を無視して六日町〜十日町犀潟をつなぐため、トンネルの割合が高いそうである。飯山線信濃川千曲川)に沿って通るのでトンネルはそう多くないが、十日町越後川口間は山が信濃川に迫っているのでトンネルで抜けることも少なくない。この辺りは有数の豪雪地帯で、落石や豪雪からレールを守るためにシェルターや防護策があちこちに設置されている。
 森宮野原は長野県に入った最初の駅である。阿賀野川同様、信濃川もここから千曲川と名前を変える。この森宮野原は7m85という積雪の記録を立てたところである。今でこそ記念碑が誇らしげに建っているが、積雪を記録した昭和20年2月12日といえば太平洋戦争の敗色が濃くなってきた時期で、そんな時期に難儀なことであろうなと推察される。ちなみに昨年度(平成4年度)の最大積雪量がつけられてあり、その記録は3m10であった。
 最初は戸狩野沢温泉で降りようと思っていたのだが、どうも野沢温泉から至近というわけではなさそうだし、当初の計画通り飯山まで行くことにする。飯山は舟運で栄えた飯山線の中心都市である。また斑尾を始めとした観光地やスキー場も近い。沿線に広がるりんごの木を見ながら、10時20分、飯山に着いた。列車は戸狩野沢温泉でかなりの乗りがあったのだが、私が降りた後、長野に向かう客で車内はさらに混み合った。


 10時56分、下り戸狩野沢温泉行きの改札が始まる。私は入場券を買ってホームに立った。2番線ホームに列車が泊まり、そして出ていくのを私はホームの端の方にある「七福の鐘」の前で見送った。列車が視界から消えたところでちらと時計に目をやって、そして鐘をついて黙祷をした。
 その時、時計の針は11時2分を指していた…


 11時44分発の長野行きは、私がこの時見送った列車がそのまま折り返してきた。
 かなりの人がこの列車に乗ろうと狭いホームに佇んでいる。列車のドアが開くと、降りる人がいるのにそそくさと乗ってしまう人がいるのにはいささか呆れてしまった。飯山に着くまでには空きボックスが認められた車内がにわかに活気づいた。
 千曲川の谷もこの辺りではかなり広がっている。千曲川の対岸には長野電鉄のレールが長野市内に向けて延びているはず*2である。
 替佐でなぜか4分遅れ、そのまま豊野に到着する。2番線ホームには「シャレー軽井沢」が停まっているのだが…


「シャレー軽井沢」は確か6時過ぎに豊野を通過したはず…


 どうやら北陸本線の後遺症がこちらにまで影響を及ぼしているようである。


 1時間ほど豊野の町でひと休みをした後、341Mで豊野を離れる、ことになっているのだが、なぜか時間になっても発車しない。
 既にこの豊野で交換することになっている「あさま20号」は着いている。そして「あさま20号」は何事もなく発車。その時、これから進もうとしている先に3つの灯火が見えてきた。もしかして、と思って目を凝らしてみると、1時前に通過していたはずの「スーパー雷鳥信越1号」の姿であった。やはりこちらも北陸本線のトラブルで遅れていたらしい。「スーパー雷鳥信越1号」が構内に入ったところでドアが閉まり、4分遅れの13時26分に発車した。間もなく飯山線からの列車が駅に差し掛かるのが見えたのだが、そんなものは無視、と言わんばかりにすれ違っていった。
 直江津行きでは女の子がポツリと1人で座っているところに混ぜてもらった。早速私はいつものように「仕事」に精を出し始めたのだが(さすがにこの記録を書くのに夜だけでは間に合わないので、特に見どころがない所では記録を列車の中で書くことが多かった。恐らくこの段階では飯山線の記録をまとめていた頃だろうな、と)彼女が窓を開けたがっていたので窓を開けてあげたのをきっかけに話が弾んだ。
 彼女が降りた高田ではすぐの発車、の筈だったのだが、なかなか発車しない。どうやらここで交換する予定で先に来ているはずの上り列車が遅れているようであった。結局高田を7分遅れで発車し、直江津に着いたのは4分遅れの14時55分であった。


 通常なら14時55分に到着した列車から1分前に発車する特急には乗ることはできない。もっともそういう時には特急が待ってくれることになっているはずなのだが、直江津駅ではそんな空気が全くない。それも当然で、14時54分発の「白鳥」も遅れを出しているのだ。そしてこの直江津北陸本線の遅れの原因がようやく判明した。
 昨夜8月8日の22時頃に武生駅で火災が発生して、信号ケーブルが焼け切れたのが遅れの原因なのだそうである。当然信号が全く機能しなくなり、武生駅を通過する列車は全て止まってしまった、そうなのである。
 「あおもり」「きたぐに」「シャレー軽井沢」がひどく遅れてしまったのはそれが原因で、さらに復旧に数日を要するために現在も1時間ほどの遅れを出しているそうである。なんだか物騒な話であるが、ありがたいことに富山以東の列車にほとんど影響はないし、また現場付近を通過するのはかなり後なので、私にとっては影響は全くない。
 ただ直江津では運悪く土砂降りになってしまい、駅前散策もままならない。


 15時34分発の富山行きは419系、件の583系寝台電車の改造車両である。当然寝台にすることはできないし、二重窓も内側の1つは外されている。全車禁煙車で、タバコを吸わない私には非常にありがたい。
 相席のOL2人組は大阪に行くような話をしていたのだが、武生のトラブルを知っているのだろうか。
 何回かトンネルを抜けるうちにトンネルの中でガクンと揺れた。筒石はまだ先なのだが、と思っているとトンネルを出て名立の駅に着く。名立を出るとまたすぐにトンネルに入るが、またがくんとなるまでに時間がかかった。もしかしたら貨物列車が待ち合わせできるように待避線を長めにとっているのかもしれないと思ううち、筒石に着いた。
 筒石駅のホームに立つと、海峡線の海峡駅を思い出した。出口と書かれた扉に近付くと、かなり激しい追い風に煽られてホームから押し出されてしまう。歩いているうちに上り列車が通過したらしく、反響がすごい。そして駅舎への階段を上がろうと右に曲がったところで凄まじい向かい風。登り切った時には足がガクガク震えていた。
 もともと糸魚川から直江津までの区間は複線化の際に地滑りの多発していた海岸線から離れて作られたのだが、筒石のあたりでは地上に駅を作るスペースがなかった。そこで頸城トンネルの中に駅を設置したという次第である。事情としては上越線湯檜曽・土合と同じなのだが、大きく異なるのは筒石は上下線共に地下にホームがあるところである。(湯檜曽・土合は上り線ホームは地上にある)
 またこの駅の利用客はそれほど多くはないと思われるのだが、保安上の理由から駅員が配置がいる。勝手にホームに入って通過列車に跳ね飛ばされないようにとの配慮であろう。駅には自動券売機は置いていないが、POSの出札補充券のような形で発券できるとのことで、能生までの切符を作ってもらった。感熱プリンターなのですぐ文字が消えそうなのが辛いところではある。
 再び階段を下りて富山方面行きのホームの手前の待合室で駅員が来るのを待つ。気圧差があるので通常ホームの扉は閉められており、駅員が列車到着直前に開ける。どこにも「勝手に入ってはいけない」とは書いてないのでホームに立っても悪くはないのだが、安全確実なのは「待つ」ことであろう。
 若い駅員氏と九州の鉄道の話をしているうちに列車が入ってきた。私はその駅員氏におじぎをして列車に乗り込んだ。
 列車は浦本で旧線跡と合流して平野部に入る。私は梶屋敷からは下り線の脇にあるポストに注目した。この梶屋敷から糸魚川の間にはデッドセクションがあるのが有名なのだが、私にとっては梶屋敷から2.9km地点がこの「最長片道きっぷの旅」の中間点にあたるのだ。
 18時01分、まずはデッドセクションを45km/hくらいのゆっくりとしたスピードで通過、そして中間ポイントを18時03分に通過した。それから2分後の18時05分、今日の宿のある糸魚川に着いた。新潟県にはこの旅で都合4回入ったことになるが、この糸魚川新潟県最後の夜になる。

*1:現在の北越急行ほくほく線

*2:長野鉄道河東線信州中野〜木島間は2002年4月1日に廃止