スーパー白鳥13号運行記録3

このブログは超ぐうたらワンマン運転士の日常(もはや気が向いたら、という気もw)を書いたブログです。はてなダイアリーで公開していた運行記録2が今年の春になくなるため、新たに作成しました。2005年11月4日…「運行記録2」暫定開業/2005年11月14日…「運行記録2」本格開業/2019年1月13日「運行記録3」移行開業

不定期連載、最長片道きっぷの旅'93 vol.16

 東北地方に入ってしばらく経ちますが、実は26日から天気が悪い日が続いています。
 いい加減晴れて欲しいなと思いながら旅をしていた頃です。


14日目(7月30日(金))雨
 宮古→釜石→花巻→一ノ関→気仙沼
52 宮古5:46→釜石7:07(624D/3-3/キハ112-2)
53 釜石8:00→遠野9:00(1626D/2-2/キハ100-15)
54 遠野10:21→花巻11:22(1630D/1-2/キハ100-20)
55 花巻12:25→北上12:40(2530D/1-3/キハ58 1515)
56 北上13:56→一ノ関14:38(1540/2-4/オハ50 2231)
57 一ノ関15:55→気仙沼17:14(335D/1-2/キハ100-40)


 東北地方はまだ梅雨が明けない。28日以来、3日連続で雨である。
 この雨のおかげで困ったことが起きた。多分翌日になれば乾くだろうなと思って28日の夜に汚れ物の洗濯をしたのだが、2日経った今日になっても一向に乾く気配がないのだ。仕方がないので28日以降ずっと履いている靴下を履くことにしたのだが、それも今日が限界で、明日洗濯物が乾かなかったら、もはや履くものはない。
 5時46分発の釜石行きはキハ110系3両編成である。早朝の列車で3両編成、しかもオールクロスシートというのも凄い豪勢に思えるのだが、釜石から急行「陸中2号」になる編成を宮古から送ったのだろう。
 ちなみに東北地方ではキハ100が普通列車用、キハ110が急行用として使われているように思えるが、実はそうでなく、キハ100は車長の短いタイプ、キハ110は標準的なタイプの新形式気動車らしいのだ。実際にキハ110は最初は急行型として登場したが、100番台、200番台は初めから普通列車用として製造されている。*1
 三陸海岸の沿線を走るのだが、三陸海岸陸中山田まではほとんど見ることが出来ない。半島の基部を強引に突っ切る形なので、やむを得ないところだろう。陸中山田を過ぎてからは海を見ることもできるのだが、ギザギザの海岸線にそって線路を引くのはまず無理で、やむなくトンネルで逃げることも少なくない。
 途中吉里吉里に停車。吉里吉里はミニ共和国のはしりとなった「吉里吉里国」の下車駅なのだが、朝早いせいか乗り降りは全くなかった。


 釜石は鉄の町として知られる。最盛期にはかなりの賑わいを見せ、かつて最強といわれたラグビーチームの出身地でもある。今は高炉の火も消え、古びた街並だけが残っている。ラグビーチームもかつての勢いは消えた。そんな町を今日は低い雲と雨がさらに陰鬱にさせる。
 釜石からはさらに先にレールがあるが、8時ちょうど発の花巻行きは山田線で来た道を少し戻る。甲子川沿いに分け入るが、ものの20km行った陸中大橋で行き止まりとなる。この陸中大橋で鉄鉱石を採掘して、それを釜石に運んでいたらしく、駅の傍に独特のトーチが見える。これから行く先にはトンネルがあり、そして左手の山肌には、これから辿る線路がへばりついているのが見える。
 陸中大橋を出た列車は、すぐトンネルに入り、左に曲がりながら高度を稼いでいく。そしてトンネルを抜けた先で、左下に先ほどいた陸中大橋の街並が見える。北上山地も山田線の時ほど険しくなく、あっさりと山越えをした列車は軽快に坂道を下っていく。
 9時ちょうどに遠野に到着。遠野物語で知られるこの町は古い街並の佇まいが魅力的で、レンタサイクルで町を散策することも考えていた。しかし結局は雨が降っているので散策自体をやめてしまった。こうなると村上でレンタサイクルを暑いからとやめたのが悔やまれる。
 次の10時21分発の列車で花巻に出る。遠野では結構降りる客がいたらしく、私は1ボックスを占領することが出来た。しかし途中のある駅で50歳くらいの女性がボックス席に入ってきた。その女性、さも自分の席だと言わんばかりに入ってくると、私の荷物など全く無視したかのようにドカッと足を置き、そのまま口を開けて寝てしまった。下には傘も置いてあり、危うく傘の骨を折られるところであった。70歳くらいのお婆さんと40歳くらいの女性が次の駅でボックスに入ってきたが、その時に「ここ構いませんか?」と声をかけてきたのとはまるで対照的だった。
 新幹線との接続駅となった新花巻でかなりの客が降り、そして花巻に着いた。件の女性は通路側にいた女性に何の一言もなく、自分だけさっさとボックスを出ていった。ちなみにその女性、カエルの解剖実験の代わりに使ってみたいくらいに丸々と太った、まさに「オバタリアン」の典型だった。


 花巻からは東北本線で一ノ関に行くのだが、そのまま行くのではあまりにも面白くないので、途中北上に寄る。列車は「火曜運休」という区間列車である。
 北上では近くのデパートにあったラーメン屋で食事をとる。そこのテレビではちょうど高校野球岩手県予選準決勝が行われていた。久慈商と住田の試合だったのだが、久慈商が1-0で勝ったところであった。ちなみに久慈商が1点を挙げたところを花巻の待合室で見ており、どうやらそれがこの試合唯一の得点だったようである。
 北上からはED75と50系客車の東北ではスタンダードな編成である。でもそれが見られるのもあと少しであると思うと、何となく寂しさも感じる。秋田地方で走り始めた701系電車が羽越・奥羽本線の主力になることは明らかであろうし、それが東北本線に進出してくるのも間違いないところであろう。そうなると、発車の時のあの「ガクン」という衝撃はそろそろ過去のものになっていくのかも知れない。


 七夕の準備真っ盛りの一ノ関からは大船渡線気仙沼に向かう。
 15時55分発の気仙沼行きは首都圏並みとは言わないまでも、かなりの混雑である。私は運転席後ろの真後ろの位置に立つことになった。
 大船渡線は「ドラゴンレール」という異名がある。線形が竜の姿に似ているというわけで、宮脇さんは鍋の「つる」に似ているからということで「ナベツル線」という表現もしていたが、とどの詰まりは鉄道が政治によってねじ曲げられた典型的な例である。
 まずは一ノ関からはまっす東に向かうのだが、陸中神崎から突然進路が北に向けられる。それまでは千厩に向かって進んでいたのだが、この時期に摺沢に有力者が現れて、レールが摺沢経由に変更されたのであった。途中の猊鼻渓で乗り降りがあり、次の摺沢で再び車内がざわついた。この摺沢は一ノ関〜大船渡間で唯一の有人駅である。その摺沢から突然南に向かい、そして今度は千厩でまた元の東へのルートに戻る。摺沢までレールを通したのはいいが、結局摺沢の有力者が失脚し、また千厩が力を取り戻したので、やむなく摺沢まで行ったレールを本来の目的地の千厩に行くように曲げてしまったのであった。
 …まったく、千厩や大船渡から一ノ関に行く人にとってははた迷惑な話である。
 列車はまだ日が明るい17時14分、終点の気仙沼に着いた。もう少し先にいきたい気もあるが、気仙沼線沿線にめぼしい宿が見つからないし、とりあえずホテルが駅前にあるから決めたようなものである。ついでに言えば、とにかく濡れている着替えを乾燥させないといけないし。
 そしてやはり…
 夜は気仙沼漁港で取れた新鮮な魚介類を肴に、酒を飲んだ。
 それが一番の楽しみだと思う。

*1:ちなみにこの旅のあとの話になるが、キハ110には「特急型」も存在した。田沢湖線標準軌改軌工事に伴い、北上線経由で北上と秋田を結ぶ「秋田リレー号」にキハ110の300番台が製造された。但し役目を終えたあとは普通列車使用に再改造された上で200番台に統合されてしまっている